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What is
Lucky wall

Lucky wall

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2023年テキスト

この作品中、2人のダンサーは最後まで板の壁に隔たれ、姿を見ることなく触れることなく終わる。1人は、それを観察するように2人にライトを当て観察する。

 

2人のダンサーは「壁」に頬を近づけ越しに会話をしている様である。だが、相手の鼓動も体温も感じることは出来ない。裏側を見ようとしてもどこまでも壁が遮り相手にはたどり着けない。壁を叩いてみる。壁と自らの身体の接触によって大きな音を出し、強い感情を持った自分の存在を相手に知らせているようだ。

 

「Lucky wall」とは私たちの前に現れるあらゆる壁のことである。私たちは「壁」を前にすると、感情を伝えられないことも、感情の存在に気づく人がいないことも分かっている。それでも「壁」を叩き続けるのは、伝えられなかった感情を持った自分の存在が曖昧になっていく感覚から逃れるために、大きな音を出し傷ついた拳の痛みから自分で自分の存在を確認しているようだ。

2021年テキスト

わたしたちは「幸運」なことに、距離が離れていても存在を確認できる世界にいる。ひとびとはスマートフォンやパソコンの画面越しに集まり、まるで、ひとは「壁」越しに会話をしている様である。画面に頬を近づけても、相手の鼓動も体温も感じることは出来ない。当たり前だが、裏側を見ても相手はいない。どこまでも続く壁のように相手にはたどり着けない。人と人を繋げているといえど充電が無くなればただの真っ暗な壁だ。わたしたちは、いつ応答がなくなっても不思議でない不安定なものに頼り、実際の相手に会わずして存在を確認している。

わたしたちは応答のない壁を前にした時、どの様にして自分の存在を相手に知らせるのだろうか?

 

 壁を殴る。ひとは度々このような衝動的に行う身振りがある。それは自分だけでは解消しきれない怒りや、フラストレーションを感じた時、その感情の強さを伝える最終手段として衝動的に行う行動である。壁と自らの身体の接触によって大きな音を出し、さらに、変形した壁によって強い感情を持った自分の存在を相手に知らせようとするのだ。

 だが今、衝動的な身体の震えや叫びは、コミュニケーション未満のコミュニケーションとしてしか通用しない。スマートフォンの中のように全てがわかりやすく見え、分類でき操作可能である者しか受け入れられないのだ。

 

自分の中にあったその衝動と出くわした時、それは相手に触れずして伝えることは出来ない感情を抱いた時だ。私たちは「幸運の壁」を手にしてもその感情を伝えられないことも、その感情の存在に気づいてくれるひとがいないことも分かっている。この衝動を受け止めるのは壁じゃなくていいことも。それでも「壁」を殴り続けるのは、伝えられなかった感情を持った自分の存在が曖昧になっていく感覚から逃れるために、殴るという行為で傷ついた拳の痛みから自分で自分の存在を確認しているのではないだろうか?自分さえも壁の向こうに行ってしまわぬように。

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